雨女・雨男、晴れ女・晴れ男って本当に迷信なの?
おはようございます。
今日は雨ですね!!
そして今日は私が楽しみしていた、久々に会う友達と遊ぶ日です。
そう、何を隠そう私は、雨女です。
雨女・雨男、晴れ女・晴れ男、についての文献を見ると、やはり科学的な根拠は全くないそうです。
ですが私、割とスピリチュアルな女でして、占いや心霊も割と信じるほうです。
自分が雨女だと思う理由はいくつかあります
・私が楽しみにしているイベントの日は80%雨が降る。
・小中高、専門の時の修学旅行は必ず雨だった。
・ディズニーに行った回数の90%が雨だった。
・晴れの日が続いていた夏の日、私が予定を入れた日だけピンポイントで雨が降った。
これだけあれば自分が雨女だと思い込んでしまっても仕方ないと思いませんか?
周りにいる晴れ女
友人に、天気予報を覆すほどの晴れ女がいます。
友人が大事なイベントに出かける日、降水確率は80%でした。
前日の天気予報でもその日は全国的に雨。
しかし、当日の朝。なんともカラッと晴れた最高のお出かけ日和。
私とは真反対でそんなことが度々あるそうです。
そんな人がいると思うと、雨女・晴れ女は迷信なんかじゃなく、本当に存在するのではないかと思ってきませんか?
人それぞれ
たかが一人の運で天気を左右できる力があるとは思いませんが、そんなこともあるんだなあと、少し信じてみるのも面白いかもしれませんね(^_-)-☆
さて、今日も雨を降らせてしまった私ですが、元気に出かけてきます!
ではまた!
原因と結果。男女差別は永遠になくならない。
こんにちは!まむしです!
今日も絶賛うつ病ライフをおくってます。+生理中なのでもう気分は最悪です(^^♪
タイトルの通り今日は男と女の話です。
私が受けてきた男女差別
エピソード①
幼少期から、女の子らしくしなさい。もっとおしとやかにしなさい。と母親から言われ続けてきました。きっと不満を初めて持ったのはその時です。
私には兄が一人います。兄はとても自由奔放でまさにガキ大将って感じでした。
一方私はというと、外では内気な女の子家では両親に甘えまくりの、兄とは正反対の子供でした。
小中学生の頃には兄の影響で年の割には口が達者で、学校の先生を論破してしまう生意気な子供でした。子供ですから、一番身近な兄の真似をするのは、当然と言えば当然でしょう。しかしその言葉遣いは両親からすれば好ましくないものでした。
「そんな言葉使っちゃいけません」母からよく言われました。
「お兄ちゃんの真似してるだけじゃん!」というと、
「あなたは女の子でしょう!」と𠮟られました。
子供ながらに腑に落ちない部分がありましたが、親に怒られるということは悪いことなんだ。と反抗をやめました。
男の兄はよくて女の私はダメ。教育的な観点で言えば、母親の言っていることは正しいのでしょう。しかし、その理由が、「女の子だから」というのが私はいつまでも納得できないままでした。
エピソード②
中学校2年生の頃、成績が伸び悩んでいた私は、親に塾に通いたいと言いました。
お金がないからダメ。一刀両断されてしまいました。
しかし兄は、私よりもずっと成績が悪く、両親にイヤイヤ塾に通わされていました。
ものすごく不満でした。私はきちんと勉強しても自分だけではなかなか成績が上がらないことに悩み、塾へ通いたいと自分から言ったのに、普段から勉強はさぼりっぱなし、遊び惚けている兄は塾へ通わせてもらっている。理解ができませんでした。
さすがに納得できないと思い、その理由を父に問いただしてみました。
「あいつは男だから勉強ができないと困る。お前は女の子だから今くらいでいいんだよ。」また出たよ。男だから、女だから。
私からすれば、全くやる気のない兄よりも、きちんと向上心を持った私にお金をかけて欲しかったのです。今でも時々思います、あの時に塾に通わせてもらえていれば、もっと良い高校にも行けて、大学にも通えたんじゃないかと。もっと違う人生があったのではないかと。女に生まれたというだけで、自分の可能性をすべて奪われた気分でした。
エピソード③
高校3年生。進路もそろそろ決まるころ。
私は美容師になる道を選びました。どうしても東京にでたいと思っていました。奨学金を借りて、自分で借金をしてでも、たくさん情報の集まる東京で勉強がしたいと思っていました。その旨を父に伝えると、地元でも美容師の免許はとれるし、お金がかかるから無理だと言われました。
そのころ兄は上京して私立の大学に通っていました。もちろん生活費や学費の援助は両親から受けていました。
兄は男だからお金をかけてもらえる、私は女だからお金をかけてもらえない。許せませんでした。
悔しくて悔しくてたまらなかったので、
お金は一切いらない。自分でバイトして、奨学金を借りて、自分の力だけで東京に行く。
と父に伝え、奨学金のシステム、一人暮らしでかかるお金、引っ越しの初期費用、学校の学費をすべて計算して、父にプレゼンまでしました。
そこまでしてやっと、話をまともに聞いてくれたました。父との討論ののち、最終的に父の口から出た言葉は、
「地元に残るなら学費は全部だしてやる。だから地元に残れ。」
驚愕でした。そこまでして私をこの家に縛り付けたいのかと。両親の気持ちも少しはわかります、大事に大事に育ててきた娘が突然借金を負ってでも東京に行くというのだから、心配や寂しさもあったのでしょう。
けれど私ももう子供のつもりではありませんでしたし、自分の将来にかかわる大事な進路です。しかし、自分の中で天秤にかけました。
奨学金を何百万円と借りて将来借金を返し続けて行くのと、地元に残り学費は両親に払ってもらいながら、バイトで貯めたお金で卒業してから上京するのと。天秤が傾いたのは圧倒的に後者でした。
両親がここまで私を甘やかしたのもまた、私が、女だからだと思います。
エピソード④
専門学校を卒業してから、私は上京しました。これでやっと両親の男女差別から解放される、そう思っていました。
でも現実は甘くはありませんでした。働き始めてからのほうがよっぽど、男、女を意識させられました。
私は、地元で美容師・理容師の免許を取得して、東京の理容室で働き始めました。理容室という場所は、完全に男社会です。わかっているつもりで入社したものの、男性の中で一切差別・区別を受けずにいることはありませんでした。
まず生理の話。
忙しい日だとなかなかトイレにも行けず、苦痛を味わいました。生理が重たい日もいつもと同じように笑顔でキビキビと働かなければなりません。生理休暇なんてものはもちろん取れません。女性が男性の中で働くということはとても大変なことでした。
次に、セクハラ。
平気で私に向かって下ネタを話してくる同僚たち。女だからお客さんも喜ぶよと訳の分からないことをいってくる上司。正直、死んでしまえと思うくらい最悪な環境でした。
そして、仕事内容の区別。
簡単に仕事内容の説明をすると、私が働いているのは理容室なのでメンズエステ・ネイルなどのメニューがあります。それらはアシスタントの仕事です。カット・カラー・パーマなどはスタイリストの仕事です。
入社して1年間はアシスタントだっだのですが、営業終わりに技術の練習をします。しかしそこで不満だったのが、女性はエステ・ネイルの練習を強いられ、同期の男性はカット・カラーの練習を推奨されていました。明らかにおかしい。
私はスタイリストになりたくて毎日帰ってからもカットの勉強をしているのに、お店での練習は先にエステの練習をしろと強いられる。同期の男性はどんどんカットの練習をさせてもらえるのに、私はさせてもらえない。それは私が女だから。
とても悔しかったです。悔しかったので、死ぬほど練習してエステ・ネイルを完璧にして、すぐにカットの練習も同時にこなしました。そして、男同期と同時にスタイリストデビューをすることをやり遂げました。性で区別されるのなら実力で見返すしかない。
しかし、デビューしてからも、女である私はエステ・ネイル等のアシスタント業務のほうが多かったです。何度悔しい思いをしてそれをバネに努力しても、結局は私は女性スタッフとしてしかみられなかった。
段々と、心が疲れて壊れていきました。
エピソード⑤
そのころ、同時デビューをした男同期と一緒に、新店舗にオープニングスタッフとして配属されました。たった3人のお店。上司は2つ上のフランクな先輩のみ。
若手を活躍させるための場をつくってくれました。私にとって最大のチャンスでした。今までライバル視してきた男同期との同時配属。実力を見せつけるには今しかないと思いました。
お客のさんの入りはそこそこ。出したばかりの店舗なのでそもそも入りは少ない。その中でも、私は新規指名客(初めてだけど指名で予約したくれたお客さん)が男同期よりも多かったです。
それが悔しくて言ったのか冗談で言ったのかは分かりませんが、
男同期、PCを見ながら渾身の一言。
「まむし~(本名は隠す)、またエロじじいの予約が入ったよ~(笑)」
は??????????????
何言ってんのこいつ。私が女だからって、私を指名してくれたお客様は全員エロじじいなわけ????
追い打ちをかけるようにもう一言。
「女はいいよな~簡単に指名がついて~」
ハラワタが煮えくり返るほどに怒りを覚えました。私にお客さんがついてくれたのは、私が一生懸命努力した結果だと思っています。
こいつは私が全く練習もしないでお客さんをつけられたと思っているのか?お前がエステもネイルも全く練習していないのは知っている。スタイリストデビューしてから調子に乗ってカットの練習をしていないのも知っている。
そんな私からしたらただの妬みや嫌味にしか聞こえませんでした。それに、それは私を信頼して来てくれているお客さんを侮辱する言葉でもありました。
その瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れた音がした気がしました。
もう、イヤだ。
女だからって理由で侮辱されるのも、バカにされるのも、女として消費されるのも、全部全部イヤだ。そう思いました。男女差別はどこまで行ってもなくならない。
原因と結果
私がここまで男・女に敏感なのは幼少期の洗脳ともいえる、女だからこうしなきゃいけない、女だから男よりも劣っていてもいい。という固定観念の植え付けが原因でしょう。
そういった固定観念を持ったまま社会に出ると、必ず苦しむ結果になると思います。
それは、向上心が強い女性なら特に、顕著に現れるでしょう。
私はこう結論付けました。女性が活躍するには絶対にぶつかる性別の壁があります。
その壁をぶっ壊してやる、と思えるくらいの決意と強いメンタルが必要です。男性とはそもそものスタートラインが違うのです。こんな社会間違っている、と思います。しかし、それは日本の文化だと考える人も世の中にはたくさんいるでしょう。
でも私はそうは思いません。男に生まれていれば感じなかったであろう苦しみを身をもって体験してきたからです。
男だから、女だから。
そんな言葉この世から消え去ればいい。
性別の壁との戦いは、これからも続いていくのでしょう。
私の細胞はBUMP OF CHICKENでできている
BUMP OF CHICKENへの愛を語る回です。
23歳。ファン歴は16年。愛を語るには十分な年月ではないでしょうか。
BUMP OF CHICKENの話をし始めたらきっと丸3日かかっても足りないでしょう。
簡潔に言いますと、
BUMP OF CHICKENは私の神様です。
人生で彼らに助けられたことは数えられないほどあります。
愛してるの言葉じゃ足りないくらいにBUMPが好き~♪ です。
ああ、BUMPのことを考えているだけで絶頂しそうです。
気持ち悪いオタクであることは承知の上ですが、このスタンスで今日はいきます。
ここまで読んだあなたはもうお分かりでしょう。
ただただBUMP OF CHICKENを褒め称えるだけの文章がこの後続きます。
好きな曲は?と聞かれたら、藤原基央。と答えるでしょう。
質問の答えになっていない?いや、そんなことはありません。それは、好きな曲は?じゃなくて好きな作曲家は?の間違いだろ!という意見は受け付けません。
(興奮しすぎてわけのわからない造語を作ってしまった)
さて、ここまで語って曲紹介ってのも普通だし…あとは何を書こう?
でも愛を語る回と謳ってる以上一つも紹介がないのも…
お分かりいただけるだろうか、勢いでここまで書いてきたので何も考えていないということを!!!!!!
とりあえずまあ無難に一番好きな曲について話しましょう。
先ほどの、好きな曲は?と聞かれたら、藤原基央。と答えるでしょう。という文章は一度無視してください。(自分都合)
①pinkie
私がBUMP OF CHICKENで一番好きな曲は?と聞かれたとき、5時間悩んだのちに答えたのは、pinkie でした。
シングル曲のHAPYYのカップリングにはいっている曲です。
歌いだしからもう最高。「未来の私が笑ってなくてもあなたとの今を覚えてて欲しい」
BUMPの曲でサビから始まる曲は比較的少ないのではないでしょうか。(主観)
だから藤くんが本当に伝えたいことはこの一文に含まれているのだと、私は思います。
藤くんがインタビューで桜の曲だと答えていたのをどこかで見ました。しかし、歌詞自体はとても抽象的です。(BUMPの曲だと当たり前のような気もしますが)
私が何故この曲にとてつもなく惹かれたのか、はっきりした理由はありません。
でも嫌なことがあった時、落ち込んでいるときは自然とこの曲をきいていました。
もし、未来の私が笑っていなくても、BUMPのライブに行った時のこと、この曲にたくさん助けられたことはぜっっっっったいに覚えています。
何かにぶつかって砕け散って終わりにしても、また始まって、変われなくて戸惑っても、またこの曲を聴いて笑えたらそれでいい。
↑ pinkieを聴いて私がいつも考えることです。(歌詞引用)
ああもう最高です。BUMPへの愛は日々Twitterで語ってきましたが、こうして文章に起こすとなんかこう…溶けそうです。(物理)
②Title of mine
2曲目を紹介しますね(^^♪
私がいつも泣いてしまう曲。Title of mine。
藤くんが自分自身で「大嫌いな曲」とまで語った曲です。
しかし、藤くんの、人間の部分 が溶け出している曲だと感じます。
この曲を初めて聴いたのは小学生の頃だったでしょうか。歌詞カードを見ながら曲を聴いたとき、自然と涙が止まりませんでした。大人でも子供でも、誰だって一度は感じたことのある、「孤独」という感情を思いっきりぶつけた歌詞です。
「それは孤独という名の思い鎖だったんです。自ら上手に体に巻き付けたんです。」
突き刺さりませんか?少なからず私には似たような経験がありました。自ら周りを突き放して、ひとりになりたいと願ったことがありました。でもいざ一人になったとき、急に寂しくなりました。
「孤独を望んだフリをしていた 手の温もりはちゃんと知っていた
その手に触れていつか離れる時が来るのが恐かった」
藤くんがその気持ちの答えをくれました。私は温もりを知ってしまっていて、それが離れてしまうくらいなら、自分から離れたほうがいい。そう思っていたんだということに気づきました。それと同時に、孤独を感じて恐れているのは自分だけじゃないんだと知りました。今この文章を書いていても震えて涙が止まりません!!!!( ;∀;)
藤くんは曲を心の鏡だといいます。自分自身の鏡でもあり、リスナーの鏡にもなってくれている。と、どこかのインタビューかライブMCで言っていました。
この曲はまさにそれだと感じます。
まとめ
ここまで紹介した2曲はBUMPの曲の中でも人間の感情部分が強い曲だと思います!!
もちろん若いころの荒削りのようなロックバンドらしい曲も大好きですし、最近のタイアップ曲のような爽やかな曲、アニソン主題歌に使われるような疾走感のある曲、藤くんの柔らかな声を穏やかに感じられる曲、BUMPの曲は全て神曲です。(信者)
藤くん藤くんと言いまくってきましたが、藤くんが産み出した曲を支えてひとつの音楽にしているのは、チャマ、ヒロ、秀ちゃんの3人です。4人揃ってBUMP OF CHICKENです。
作詞作曲の天才、神の歌声を持つ藤くん。SNS、にぎやかし、金髪担当のチャマ。ライブのMCも煽りもへったくそなのが愛くるしいヒロ。最初にバンドをやろうと言ってくれた秀ちゃん。私はこの4人が大大大大大好きです!!!!
愛は伝わったでしょうか。BUMPの全曲レビューを言えと言われれば余裕でいくらでも語り始めますが、文章に起こすと首肩腰がご臨終するのでできませんが、また新曲がでたら感想でもかこうかな(^^♪
では今日はこの辺で!
最後まで読んでくださりありがとうございます!
トルコ人のお兄さんだいたいフレンドリー。
こんにちは!まむしです。
ちなみに今更ですがまむしは、蛇のマムシではなく、「まむ」というあだ名に「氏」をつけたものなので以後お見知りおきを!(どうでもいい)
さて、今日は日記らしい日記を書きます!
西荻窪周辺で友達と遊んできました。
目的は、「物豆奇」という喫茶店です。この漢字で ”ものずき” と読むらしいです。もうすでにオシャレ!!素敵!!!
この喫茶店を知ったのは、放課後ソーダ日和 という、女子高生がひたすらクリームソーダを飲み歩くほのぼのとした映画で使われたお店だったからです。実際にあるいろいろな喫茶店のクリームソーダを知ることができます。
喫茶店巡りが大好きな私には持って来いの映画でした。
そして注文したのはもちろんクリームソーダ。なんと、ここのお店のクリームソーダは赤いんです!!!!ザクロ味のクリームソーダだそうです。
見た目も可愛ければ他のお店とは一味違う変わった味でした(^^♪
また行きたい☆
そしてそのあとはそのまま西荻窪をぶらり。
すると、トルコ雑貨屋さんを発見!!!!!!
何を隠そうワタクシ、トルコ雑貨が大好きです。もう大興奮!!!!
店前でハァハァしていたらトルコ人とお兄さんがアラワレタ。
店内に連れられ……。
夢の国かと思った。トルコ人のお兄さんに1万円するペンダントトップを売りつけられそうになったが、持ち合せないデーース!ゴメンナサーイ!と回避。
その日はかわいいボタンとカーネーション柄のタイル(鍋しきもなる)を買いました(*´з`)
衝動買いだけど後悔はしてない。
そこから高円寺に移動して、古着屋巡りしたり、シーシャ屋さんに行ったりして一日を終えました。
楽しかった!!!!!!!!!
更新さぼってたけどこんな感じで今後もゆるゆるとやっていきますので。
ではまた!!(^_-)-☆
青いフェンスの前で
闘病日記
今回は少し重たい話なので苦手な方は避けてください。
・うつ病
・聴覚過敏
私が医師から言い渡された病名です。
月経不順が酷かったので、婦人科に行き、ホルモン検査をしたら、PCOSだと言われた。いわゆる不妊症になる一歩手前。人より妊娠がしづらい。
女性は歳を取れば取るほど妊娠しづらくなるというのは一般的に知られていると思うが、PCOSの人は20代のうちに不妊症になってしまう人もいる。
私は自分の仕事への意欲がとても強かったので、20代後半もしくは30代に差し掛かった頃独立して、結婚や出産は仕事が軌道に乗ってからだと考えていた。
....待てよ、ただでさえ30代くらいから妊娠の機能が落ちていくのにそんな病気にかかってたら自分は一生子供が産めないのでは??
私もひとりの女性なので出産して子供を育てるのは当たり前だと思っていたし、それを望んでいた。だけど、もしかしたらだけど私はそれができない。でも私が仕事で成功するには確実に今から10年はかかる。納得いく技術を身につけるまで、産休をとったり
若いうちに子供を育てながら仕事の技術も磨くなんてそんなマルチタスク供え持ってない!!!
私の思い描いていた人生設計が一気に崩れた瞬間だった。
もしかしたら不妊治療をすれば望んだ人生を歩めるかもしれない。医療の進化に期待して今まで通りのやり方で仕事をやっていくこともできるかもしれない。
私は幼い頃から完璧主義者で懐疑心が強く、何かとマイナス志向だ。
そんな私がもしかしたら、かもしれない、なんて言葉を受け止めて今まで通りになんてできるわけなかった。
ショックで頭がおかしくなりそうだった。女として産まれたのに女の機能が人より劣っている。早めに不妊治療をし出産をしたら、自分の目標だったレベルの仕事は達成できない。自分の存在意義までがわからなくなった。
PCOSであるショックと、職場での男女差別がリンクしてとてもとても辛かった。さらには人事異動により半年で3回の異動。環境の変化、新しい人間関係。のしかかる重圧は私の精神をズタボロにさせた。
まずご飯が食べられなくなった。食べても食べても吐いてしまう。ストレスを食にぶつける癖があったので過食嘔吐を繰り返して10キロ痩せた。電車に乗ると動悸が止まらなくなったり、職場で過呼吸を起こしたり急に泣き出したりして上司や同僚に迷惑をかけたりもした。街を歩いていても子供の声や自動車の音、なんの音にも怯えて、イライラして、過敏になった。
そして、うつ病になった。
医師から休職するように、と言い渡されてしまった。やっと職場でも認められるようになった時期に、自分の人生で一番大切な、"仕事"を奪われた。
そこからは薬で治療。最初の頃は何度も自殺を考えた。今でも時々ふと死にたくなったり常に希死念慮はある。鬱になったことによって、パニック障害と聴覚過敏も併発した。
うつ病の診断をされて7ヶ月。何度も病院を変えて自分に合った医師に出会えたことで、少しは病状も落ち着いてきている。
過去の話
私が初めて死にたいと思ったのは小学校3年生の時。いじめられていたわけでもない、家もそこそこ裕福で虐待やネグレクトがあったわけでもない。むしろ愛情いっぱいに育てられていた。
下校途中、住んでいたマンションの青いフェンスの前で立ち止まった。
ふと、死にたい と思った。何故かはわからない。いつ死んでもいいと思い始めた。死んだら今後楽しい人生が待っていたとしても死んでしまったらそこまで。そういう運命なのだから自分自身が悲しむことはない。きっと家族は悲しむだろうが、大きく言えば家族だって他人だ。
そこから何かが狂い始めた。
幼い頃から少し大人びていた。年齢に相応しくない発言や思想を持っていた。大人っぽいねと言われることも何度もあった。
今思えば自分の人生を諦めたのが早すぎたのだったと思う。
学生時代は、何故周りの子たちはこんなにも能天気に生きているのだろう。何故当たり前のことができないのだろう。一般常識のない教養のない奴らだな、子供だな、と馬鹿にしていた。
私は少し変わった完璧主義者だった。習い事でピアノをしていたが私より上手な子がいるだけで悔しくてたまらない。それだけで死にたいと思った。絵を描くことや芸術的な建築に興味があった。でもそれらは、私より才能がある人が世の中に溢れていて、私は一番にはなれない。中途半端にやるくらいならさっさと諦めたほうが自分が悔しい思いをしなくて済む。完璧にできない自分に見切りをつけた。
そんな私でも生涯を捧げてこの分野で特別な人間になれるかもしれない。なりたい。と思えたことが一つだけあった。それが美容の仕事だった。美容師免許・理容師免許を取り、今は理容師として働いている。私の天職だと思う。人の話を聞くのが好きだし、自分が話すのも好き。もちろん髪を切って人が喜んでくれることが何よりの幸せだった。死ぬまでこの仕事をするんだ。この仕事で1番になるんだ。そう思えるほどの仕事に出逢えたのは私の人生の中の大事件だと言えるだろう。
でも、それがいけなかったみたいだ。私にはこれしかない。と決めつけ自分で自分を縛っていた。この仕事で1番になるには人の何倍もの努力が必要だ。更には社会にでると理不尽な要求や差別がたくさんあった。
今まで良い子でいなきゃいけない、誰かに認められないと存在する価値がない。と思い続けてきた私は、仕事に関することなら睡眠も惜しまず、上司の無理な要求も死ぬ気でこなした。
私はストレスを発散することが苦手だった。やり方がわからないのだ。何でも、私が我慢すればいい。と思ってしまう。
それを1年半続けた。身体も心も壊れてしまった。
これからの話
カウンセラーの先生に、自分の人生を遡って価値観を変えてみてはどうかと言われた。今更価値観を変えるなんてできるのかと聞いたら、年齢的にまだ可能だそうだ。
臨床心理士であるカウンセラーさんの言うことだ。プロの言う通りにするのが手っ取り早いと思い、自分の過去と向き合うことにしてみた。
続きはまた気が向いたときに書こうと思う。このことを書いたのは、同じような境遇の人に、自分だけじゃない。一緒に頑張ろうと伝えたかったからだ。もしかしたらただの不幸自慢に見えるかもしれない。理解してくれる人、共感してくれる人がいたら自分自身の支えにもなるんじゃないかと思う。
添付画像が特になかったので、マウスもペンタブも無しで描いたらくがき載せとこーっと。
1日坊主になりそう
朝5時に起床。1時間ほどスマホをいじり、6時ごろに朝ご飯を作った。
今日のメニューは ほっけ焼き、甘い卵焼き、キュウリと人参の浅漬け。
7時にはお風呂をためて優雅に朝風呂を堪能した。
洗濯を済ませ、お弁当を作り、9時に同居人を見送った。
さて、今日も1日が始まる。とりあえず昨日始めたブログでも更新しよう。
さぁ~て今日は何を書こうかな~♪
…
……
………
ネタがない!!!!!!!!!!!!
ここまで書いた内容は、ただの主婦のモーニングルーティンのような超どうでもいい話じゃないか!!!
現在ほぼニート。特に外出もせず元々インドア派な私にたった1日で面白おかしいことなんて起きるわけがなかった!暇だから始めたブログがこれでは1日坊主になってしまう!!
そんなわけで昼まで惰眠をし、お腹がすいたのでとりあえずウーバーイーツさんにガストのお弁当を届けてもらった。
いや外に出ろよ!!!
外出もせずにネタができるわもないだろう。そんなこともない場合もあるが。
では根本的なところから考えよう。そもそものブログのタイトルは「まむしの日記」である。と、いうことは毎日の朝・昼・晩の献立をずらずらと書き並べるだけでもそれは日記だ。
…でもさ、ほら、あの、せっかく始めたわけだし、有名になりたいとか収益化したいとかそんな大層なことは微塵も思ってないけど、誰かに読んでもらったり少しは反応あったら嬉しいな~とか思うじゃん??(*´з`)
基本ポップなエンターテイナーでありたいわけよ!!
でもよく考えたら私いまうつ病でニートだったーーー!!ポップさのカケラもねえーーー!!!!
外に出たところで何すればいいの!?友達みんな仕事だし!!暇だよ誰かたすけて!
散歩でもして「今日は絶好のお散歩日和。公園で遊ぶ子供たちを見ながらほっこりしました(^^♪ 色とりどりのチューリップが咲いていて春を感じました☆」
とか書けばいい??
ガラじゃないだろ!!!私がそんな文章書いてたら友人みんな、ワッツハップン!?アンビリーバブルだよ!!と困惑してサンバを踊り始めてしまう!!(どんな友人だよ)
映画の感想、アニメの感想でも書こうかとも思ったけど、おうち時間でもうネトフリもアマプラも飽きてしまったし、前見たやつも感想書けるほど覚えてない。今たぶんアリくらいの偏差値しかないと思う。
ところでみんなまだ暖房って使ってる?今エアコンから高橋名人みたいな音がしてビビったんだけど。
では!今日はもう飽きたのでまた明日!
最後に、私の好きな言葉を。「精神的に向上心のない者はバカだ」
次回をお楽しみに!サラバ!!!
椎名林檎にもチャットモンチーにもSHISHAMOにもなれなかった
まじで???
ブログも始めたことだし、今日は2つ目の記事書いちゃうぞ~☆
意気揚々と再度PCを前にしたが、8割ほど書き終わったところで、
ピュ~~~…カチッ。
えっ、、、えっ!?PCがシャットダウンしました。
充電切れ。コンセントにプラグがささっていなかった。
私のおバカ!!!
パソコンでブログ記事書いちゃうのちょっと憧れだったんだよね~ルンルン的なノリでやり始めるからこうなるんだよ!!
もちろん保存をまだしていなかったので8割書き終わっていた記事は消えていた。
スマホを持っているくせにわざわざ古いPCを引っ張り出してブロガーを気取る初心者そのものである。
頑張ってさっきと同じ文章を脳死状態で綴ります。
高校生の頃のお話
学生時代、ガールズバンドを組んでいました。
夢見がちな女子高生だった私はバンドに憧れて、自分も頑張れば何か特別な存在になれると思っていたのでしょう。
ギターを手に取り、ライブハウスに通い。キラキラしたステージのバンドマンに心躍らせていました。ガールズバンドを結成して自分もいざステージへ。
結果、
ボロッボッロの初ライブ。
えーーーーーーー、バンドってこんなに難しかったのーーーっ!?!?
自分の演奏にもメンバーの演奏にも絶望した。よく考えれば当たり前のことだったのだ。何せメンバーは全員バンド未経験者。最初のライブが上手くいくわけがねぇ~。
それでもバンドを続けて学生最後のライブでは、ライブハウスの店長に「最初の頃に比べてすごくうまくなったね」と言ってもらえるくらいにはできるようになった。(きっと子供のお遊戯会をほめる親目線的な程度の評価)
いや~~当時は本気でバンド続けたいと思っていたが、
現実って、キビシィィーーーー!!!!
努力しても無理なもんは無理。人には得手不得手があるんだなぁ~と悟った高校時代でした(^_-)-☆
数年たって、先輩後輩のバンドが趣味で続けていたり、当時は全く人気のなかった好きなバンドが売れていくのを見ると、なんだかとってもエモーショナル…
ちなみにガールズバンド時代は、チャットモンチーやSHISHAMO、東京事変などのコピバンをしていまいた。懐かしいな~(^^♪
初めて買ったギターはSGでした。Girls Dead Monsterのユイちゃん(LiSAちゃん)が大好きだったので(^^)
(初ライブ前日にヘッドが折れて大泣きした。)
今は好きなバンドを聴いたり時々ライブに行ったりする程度ですが、いつかまた、弾き語りとかを趣味にするくらいはしたいなぁ~。