青いフェンスの前で

闘病日記

今回は少し重たい話なので苦手な方は避けてください。

 

多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)

うつ病

パニック障害

・聴覚過敏

 

私が医師から言い渡された病名です。

 

月経不順が酷かったので、婦人科に行き、ホルモン検査をしたら、PCOSだと言われた。いわゆる不妊症になる一歩手前。人より妊娠がしづらい。

女性は歳を取れば取るほど妊娠しづらくなるというのは一般的に知られていると思うが、PCOSの人は20代のうちに不妊症になってしまう人もいる。

私は自分の仕事への意欲がとても強かったので、20代後半もしくは30代に差し掛かった頃独立して、結婚や出産は仕事が軌道に乗ってからだと考えていた。

 

....待てよ、ただでさえ30代くらいから妊娠の機能が落ちていくのにそんな病気にかかってたら自分は一生子供が産めないのでは??

私もひとりの女性なので出産して子供を育てるのは当たり前だと思っていたし、それを望んでいた。だけど、もしかしたらだけど私はそれができない。でも私が仕事で成功するには確実に今から10年はかかる。納得いく技術を身につけるまで、産休をとったり

若いうちに子供を育てながら仕事の技術も磨くなんてそんなマルチタスク供え持ってない!!!

 

私の思い描いていた人生設計が一気に崩れた瞬間だった。

 

もしかしたら不妊治療をすれば望んだ人生を歩めるかもしれない。医療の進化に期待して今まで通りのやり方で仕事をやっていくこともできるかもしれない。

 

私は幼い頃から完璧主義者で懐疑心が強く、何かとマイナス志向だ。

 

そんな私がもしかしたら、かもしれない、なんて言葉を受け止めて今まで通りになんてできるわけなかった。

 

ショックで頭がおかしくなりそうだった。女として産まれたのに女の機能が人より劣っている。早めに不妊治療をし出産をしたら、自分の目標だったレベルの仕事は達成できない。自分の存在意義までがわからなくなった。

 

PCOSであるショックと、職場での男女差別がリンクしてとてもとても辛かった。さらには人事異動により半年で3回の異動。環境の変化、新しい人間関係。のしかかる重圧は私の精神をズタボロにさせた。

 

まずご飯が食べられなくなった。食べても食べても吐いてしまう。ストレスを食にぶつける癖があったので過食嘔吐を繰り返して10キロ痩せた。電車に乗ると動悸が止まらなくなったり、職場で過呼吸を起こしたり急に泣き出したりして上司や同僚に迷惑をかけたりもした。街を歩いていても子供の声や自動車の音、なんの音にも怯えて、イライラして、過敏になった。

 

そして、うつ病になった。

医師から休職するように、と言い渡されてしまった。やっと職場でも認められるようになった時期に、自分の人生で一番大切な、"仕事"を奪われた。

そこからは薬で治療。最初の頃は何度も自殺を考えた。今でも時々ふと死にたくなったり常に希死念慮はある。鬱になったことによって、パニック障害と聴覚過敏も併発した。

うつ病の診断をされて7ヶ月。何度も病院を変えて自分に合った医師に出会えたことで、少しは病状も落ち着いてきている。

 

 

過去の話

私が初めて死にたいと思ったのは小学校3年生の時。いじめられていたわけでもない、家もそこそこ裕福で虐待やネグレクトがあったわけでもない。むしろ愛情いっぱいに育てられていた。

下校途中、住んでいたマンションの青いフェンスの前で立ち止まった。

ふと、死にたい と思った。何故かはわからない。いつ死んでもいいと思い始めた。死んだら今後楽しい人生が待っていたとしても死んでしまったらそこまで。そういう運命なのだから自分自身が悲しむことはない。きっと家族は悲しむだろうが、大きく言えば家族だって他人だ。

 

そこから何かが狂い始めた。

幼い頃から少し大人びていた。年齢に相応しくない発言や思想を持っていた。大人っぽいねと言われることも何度もあった。

今思えば自分の人生を諦めたのが早すぎたのだったと思う。

学生時代は、何故周りの子たちはこんなにも能天気に生きているのだろう。何故当たり前のことができないのだろう。一般常識のない教養のない奴らだな、子供だな、と馬鹿にしていた。

私は少し変わった完璧主義者だった。習い事でピアノをしていたが私より上手な子がいるだけで悔しくてたまらない。それだけで死にたいと思った。絵を描くことや芸術的な建築に興味があった。でもそれらは、私より才能がある人が世の中に溢れていて、私は一番にはなれない。中途半端にやるくらいならさっさと諦めたほうが自分が悔しい思いをしなくて済む。完璧にできない自分に見切りをつけた。

 

そんな私でも生涯を捧げてこの分野で特別な人間になれるかもしれない。なりたい。と思えたことが一つだけあった。それが美容の仕事だった。美容師免許・理容師免許を取り、今は理容師として働いている。私の天職だと思う。人の話を聞くのが好きだし、自分が話すのも好き。もちろん髪を切って人が喜んでくれることが何よりの幸せだった。死ぬまでこの仕事をするんだ。この仕事で1番になるんだ。そう思えるほどの仕事に出逢えたのは私の人生の中の大事件だと言えるだろう。

 

 

でも、それがいけなかったみたいだ。私にはこれしかない。と決めつけ自分で自分を縛っていた。この仕事で1番になるには人の何倍もの努力が必要だ。更には社会にでると理不尽な要求や差別がたくさんあった。

今まで良い子でいなきゃいけない、誰かに認められないと存在する価値がない。と思い続けてきた私は、仕事に関することなら睡眠も惜しまず、上司の無理な要求も死ぬ気でこなした。

私はストレスを発散することが苦手だった。やり方がわからないのだ。何でも、私が我慢すればいい。と思ってしまう。

 

それを1年半続けた。身体も心も壊れてしまった。

 

 

これからの話

カウンセラーの先生に、自分の人生を遡って価値観を変えてみてはどうかと言われた。今更価値観を変えるなんてできるのかと聞いたら、年齢的にまだ可能だそうだ。

 

臨床心理士であるカウンセラーさんの言うことだ。プロの言う通りにするのが手っ取り早いと思い、自分の過去と向き合うことにしてみた。

 

続きはまた気が向いたときに書こうと思う。このことを書いたのは、同じような境遇の人に、自分だけじゃない。一緒に頑張ろうと伝えたかったからだ。もしかしたらただの不幸自慢に見えるかもしれない。理解してくれる人、共感してくれる人がいたら自分自身の支えにもなるんじゃないかと思う。

 

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添付画像が特になかったので、マウスもペンタブも無しで描いたらくがき載せとこーっと。